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理事長コラム


原子力規制委員会を福島第一原発の近傍に移設するのも一法
加藤和明
2016年01月15日

 何事かについて他者に理解を求め賛同を得ようとするときには、“説明”が必要となる。 その際に重要なことは(用いる)“データ”と “ロジック”である、と言われることがある。 文系の人の発言に対し理系の人が言いがちなことである。この主張に反対を唱える人はいないであろう。

 しかし、原因と結果の関係は、日常生活の多くで出会う「1対1に対応する(因果が必然性の論理で結びつく)ケース」ばかりとは限らない。 ある原因に対しある結果が結びつくのが確率的であり、その結果を生じる原因の候補が複数である場合も少なくない。 高熱を発した患者を前にして医師が診断を下す場合は一つの良い例である。 相関と因果が別物である例は少なくない。

 説明や説得には、単にデータとロジックがあればよいというものではなく、使用したデータの良否と用いたロジック(結論を得るための考え方の筋道)の当否も重要となる。 データの取得に関わりを持つことの多い“定量”の品質(精度と確度)と、不確実性を伴うデータを用いて下す“判定”の品質の良否も重要にして必要な検討要件となる。

 原子力や放射線の安全管理の実務においては、医師が患者の病名を診断するのに似て、結果から原因の候補を推測する必要にしばしば遭遇する。 結果から原因を推測するので「逆問題」と呼ばれる。 原因と結果が 1対1に対応する場合と違って(「必然性の論理」が使えないので)「蓋然性の論理」を使わなければならず、道具立てにも「ベイズ統計学」が使われたりする。 問題を解くというのは「最適解」の探索ということになり、それに付随する不確実性の評価も必要となる。 最も重要な必要条件は“最適”判断基準の設定・策定で、それは、しばしば、個人や(個人の集団である)社会の価値観に依存する。 個人の持つ価値観に多様化が許容され、実際に多様化が進んでいるこの国の現在の状況下では、最適解の探索に必要な“評価関数”の設定に係る、社会としての統一的な意思の集約を如何に行うかという困難な問題も付随する。

 放射線や原子力の安全確保に係る説明や説得の作業においては、使用する用語の概念規定とその有効性についての限界とともに、用いる手法の論理と前提を、明確に示し、両者が共通に正しく理解・把握している必要がある。 しかしながら、マスコミなどに現れる、放射線や原子力に係る言説を、このような視点から見るとき、目を覆いたくなるようなケースが多すぎるというのが筆者の実感である。

 この 3月には、東日本大震災から 5年目という節目を迎えるが、政府は、放射線被曝についての混乱を極めている安全論議に明快な綱捌きを見せることができず、福島原発被災に巻き込まれた地元住民の多くは、政府の災害収拾策に、未だ不信と不安を抱え続けているように見受ける。 データとロジックを基本に据えての説明説得が困難を極めているのは、根源に横たわる制度設計が“世の中の事態の変化”に対応できないほど適性を欠いてしまっているというのが筆者の理解であるが、それはともかくとして、説明も説得も為し得ない状況がずるずると続いて行くのは誠に困ったことであり、国益を損ねること夥しい。 それを克服する一つの手立ては、原子力規制庁を福島の現地に移転することである。 当然原子力規制委員会も含むものとし、委員長や委員には生活の本拠も現地に移して戴くのである。 “仕事場”が霞が関から離れることには “不便”と “効率の低下”の伴うだろうことは百も承知であるが、日本原燃が蛮勇を奮って本社を青森県六ヶ所村に移転したという前例もある。 また、今朝(2016年1月15日)の朝日新聞東京版(1面)の記事によると「政府は文化庁を京都に移転する方針を固めた」とのことである。 政府が進める中央官庁の地方分散の一翼を担う意味もあるが、何より福島原発の事故に苦しむ現地住民に安心を与え、政府の施策に理解を得るのに有効と考えるからである。


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